「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第12回 佐藤道郎・後編 (前編から読む>>) ◆誰が好き? 横浜DeNAのチアリーダーがずらり 平成の時代にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」──。時代は令和に変わり、昭和は遠い昔となりつつある。しかし、そんな今だからこそ、当時の球場を沸かせた個性あふれる選手たちを忘れずにおきたい。 「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズの12人目は、プロ野球「初代セーブ王」の佐藤道郎(さとう みちお)さん。新人王を獲得した初年度からリリーフ、ときには先発とフル回転していた右腕は、なんと自分から「救援投手のタイトル創設」を訴え、その初代の栄誉を勝ち取っていたのだった──。 * * * そもそも、セーブがメジャーリーグの公式記録となったのは1969年。条文が整理され、野球規則に載るようになったのは73年。この情報を契機として、「アメリカではもうタイトルがあるじゃないか」と選手間で言われ始め、翌74年の導入につながったと推察できる。 「うん、それはそうだったね。あとは当時、リリーフだけの防御率1位ってのを作ってくれ、っていう願望もあったんですよ。かたや先発で200何イニング投げてて、こっちは130イニング。あの頃は130試合制だから、130投げたら防御率のタイトル獲れた。だけど、200何イニング投げてる人と自分が争うのもおかしいな、っていう気があって」 セーブと防御率の同時受賞は当然、前例がなく、記録とタイトルを巡って戸惑いがあったのも仕方ないと思う。が、そこでリリーフ独自の防御率1位を提案するあたり、セーブ制度を望んだ佐藤さんならでは、という気がする。
「ただ、その74年は13セーブですよ。当初はね、セーブ付くの1イニングで2点だったから。今は3点だけどね。だから、3点差で行くと『ただ働き』って言ってたぐらいだからね。何もないなって。まあでも、今の抑えは9回、1イニング限定だもんね」 タバコに火をつけ、軽く腕を組みつつ、声のトーンを下げて言った。当時の抑えは7回、8回から、それも走者がいる場面での登板がほとんどだった。「1イニング限定」を簡単に認めたくない、という気持ちがあるのかもしれない。 「あの頃、いつもランナーいるから、セットが当たり前。だから『ワインドアップで投げさせてくださいよ』って言いに行ったこともあるよ。イニングの先頭から投げたいということで。でも滅多にないんだよね。 出番があるときはまずランナーがいて、出番がないときはボロ負けか完投でしょ? ここで打たれりゃ、オレ、出番あんのにな、とか思いながらブルペンで投げてたけどね、えっへっへ。出番がなきゃ、商売になんないですからねえ」 出番といえば、佐藤さんは完全にリリーフに定着したわけではなかった。75年は先発起用があって、完投も3試合。翌76年にはまたもやリーグ最多登板を果たすと、2回目のセーブ王のタイトルを獲得する。 ところが、同年に阪神から移籍した江夏豊の存在によって、翌77年の佐藤さんは先発に回ることになる。野村克也監督の方針で江夏が抑えになるわけだが、このとき、江夏には、『佐藤ミチが築いた分野を荒らすことになる』という気遣いもあったようだ。 「うん。まあでも、江夏は本当は先発したかったんだよね。それが体調の問題で、長いイニングは無理って考えが野村さんにあったんじゃないかな。それで野村さんに呼ばれて、『ミチ、おまえ、先発やりたかったよな? 言ってたよな?』『はい』って。で、『江夏を抑えにするから』っていうんで、オレは先発になった」
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September 28, 2020 at 09:20AM
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3試合連続サヨナラ本塁打を食らった男。 「もう取り憑いちゃったね」(webスポルティーバ) - Yahoo!ニュース
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