元中日監督の高木守道氏が17日午前、急性心不全のため死去した。78歳だった。監督時代の94年には巨人と同率首位で並び、最終戦で優勝を争った伝説の「10・8」決戦で敗れるなど悲運の指揮官としても記憶される。

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中日側から見ると「10・8」は全く違う話になる。いくつかのエピソードは17日に急性心不全で亡くなった当時の監督、高木守道の人柄を物語る。1994年(平6)の勝った方が優勝となる最終戦。これまで巨人のこの試合への取り組みは、いろんなところで報じられてきた。長嶋茂雄監督が前夜に桑田真澄を呼び出し「しびれるところでいくぞ」と言った話や、試合前のミーティングで「勝つ!勝つ!勝つ!」とやった話など、どれも勇ましく、特別な試合にかける気持ちが伝わってくる。だが、中日は、そういったモチベーションアップのイベントを一切していない。

入団2年目、3番手で登板した佐藤秀樹が振り返る。「ジャイアンツは特別な試合だとして、いろいろやったのをテレビとかで後日知ったけど、ウチは普段どおりでした。ミーティングも通常どおり。気合を入れたのもない。ホームだったのもあるかもしれませんが…」。先輩の後ろについて、がむしゃらにやるだけの立場。周囲の異常な雰囲気は感じ取っていたが「それにのみ込まれないようにしてくれたのかなって今だから思います」。試合では3回を無失点。高木監督の雰囲気づくりは、佐藤には効果を発揮した。

中日の普段着野球は巨人の一戦必勝野球に敗れるのだが、この日の中日のクライマックスはむしろ試合後にあった。胴上げを見せられてベンチ裏に下がると最後のミーティングで高木監督が口を開いた。シーズン中盤に解任報道が出て、後任監督には星野仙一の名前が挙がっていた。8月からの快進撃で最終戦に優勝がかかるところまでこぎつけた経緯があった。「残念だった。でも、ここまでこられたのはみんなの力だ。一緒にやれるかはわからないけど、悔しい思いは来年にぶつけてくれ」。はなをすする音が響いた。その時だった。あるベテラン選手が「監督、辞めないでください。一緒にやりましょうよ!」と声を張った。敗戦に沈んでいたロッカールームは鼻の奥がツンとなる別のドラマにすり替わった。

高木監督は後年「ジャイアンツみたいにやっておけば良かったかな。それか、あそこで辞めておけば…」と冗談交じりに話していた。「10・8」の翌年も指揮を執ったが、成績不振のためシーズン途中で解任された。佐藤は「10・8」と高木監督を思うと、試合後の人間味あふれる一幕が忘れられないという。「選手に慕われていました。瞬間湯沸かし器とも言われていたけど、どやされたこともありませんでした。入団時の監督で、打たれても我慢して使っていただいた。本当にお世話になりました。ご冥福をお祈りします」。突然の別れに胸を痛めた。(敬称略)